広島県三次市吉舎町(ひろしまけんみよししきさちょう)
「きさ」の地名の起こりに関しては、後鳥羽上皇の言葉に由来するとの説もある。鎌倉時代、後鳥羽上皇が隠岐に配流される途中、当地の「吉舎艮神社」で一泊された。その際、「御叡慮ニ相叶候や、吉(よ)き舎(やど)りと宣言在らせられ候。それより吉舎村と追々村名唱替候由(吉舎村国郡志書上帳)」と伝えられ、ここから「キサ」に「吉」と「舎」の字を当てるようになったという。
吉舎町の紹介
もともと吉舎町は、広島県の東北部、三次・庄原の両市を中心とした「備北広域市町村圏」の 南端に位置し、三次市、三良坂町、甲奴町、総領町、世羅町、世羅西町の1市5町と境界を接していました。吉舎町の面積は84.07km2で、吉舎町は弥生時代から人の多く居住した地で、町内には約400基の古墳が残されています。中世には地方豪族である和智氏の城下町として栄え、その後も陰陽を結ぶ街道の宿場町として長く栄えてきました。明治22年、町村制施行により既存の7ヶ村が合併して吉舎村が、6ヶ村が合併して八幡村が成立。大正9年に吉舎村が町政を施行し、昭和28年に八幡村と合併し、以後、周辺町村と境界変更などを行いました。現在では、2004年4月1日に、双三郡6町村、三次市、甲奴町が合併して、新「三次市」になりました。
町中央部を南から北へ貫流する馬洗川(江の川水系)と東部をやはり南から北に貫流する上下川(江の川水系)に沿って帯状の平地がある以外は、町域の約80%が山林であり、耕地は10%にすぎません。町域の約50%が振興山村地域で、「八幡地域」と「上安田地域」の2地域があり、ともに昭和45年に指定を受けていました。
「吉舎」と書いて「きさ」と読みます
「吉舎」と書いて「きさ」と読みます 「きさ」の地名の起こりに関しては、後鳥羽上皇の言葉に由来するとの説もある。鎌倉時代、後鳥羽上皇が隠岐に配流される途中、当地の「吉舎艮神社」で一泊された。その際、「御叡慮ニ相叶候や、吉(よ)き舎(やど)りと宣言在らせられ候。それより吉舎村と追々村名唱替候由(吉舎村国郡志書上帳)」と伝えられ、ここから「キサ」に「吉」と「舎」の字を当てるようになったという。
教育と文化の町
リゾート地を目指す教育と文化の町 明治27年(1894年)には当時2校しかなかった中学校、私学・日彰館が創設され、以来「教育と文化の町」を掲げている。近世では石見街道の宿場町として栄え、現代では中国横断自動車道を軸に、観光施設の整備が進められている。「人と自然がはぐくむ豊かで魅力あるくらしの創造」を基本テーマに、定住対策や福祉の充実、交通網の整備など、豊かな自然との調和を図っております
吉舎町の行事
◎吉舎ふれあい祭り お盆8月15日、吉舎の町の中心を巴に流れる馬洗川が、大小5,000個の灯ろうの幻想的な光につつまれます。商工会独自の祭りとして昭和62年から始まったこの祭りは、現在は町をあげての祭りへと変身し、近隣の市町村に例を見ないほどの光の夏祭となり、すっかり夏の風物誌として定着しました。
◎辻八幡神社「神殿入り」 広島県無形民俗文化財「神殿入り」は天明年間(1781~1789)の大飢饉の際、多くの餓死者が出たために、五穀豊穣を祈り、収穫を感謝するため、始められたといわれています。
現在では、秋の例大祭前夜(10月12日・・・現在では10月の第一土曜)に辻の各集落、各家から竹笹に5~10個の灯籠をつるして一斉に神社へ参拝するという伝統的な民俗行事として行われます。